2020年8月長崎平和記念式典

実験ネタではないのですが…

みなさんが住んでいるおうちから、1㎞の距離のところって、どのあたりでしょうか?
通っている学校?
お買い物によく行くスーパー?
車で行くほどではないかな。歩いて行けるくらいのちょっとそこですよね。
では、2.3㎞くらいってどのあたり?
2.3㎞くらいだったら、頑張れば走りきることができるくらいかな?

では、その1㎞くらいのところに、原子爆弾が落ちたとしたら…
みなさんは、どうなるでしょう?
原子爆弾?想像できるかな?
75年前の8月9日11時2分 長崎に落とされた原子爆弾では、
1㎞の範囲の人々は、即死だったといわれています。
その即死の様子も、真っ黒こげ(木炭のよう)で誰だかわからなかったり、一瞬でシャレコウベになっていたり、影だけになっていたり…上手に伝えられないけど、
そもそも、住んでいるところの1㎞くらいに、原子爆弾が落とされるなんて、想像できないですよね。
でも、75年前、起こったことなんです。
新型コロナが、知らず知らずのうちに身近なことろで発症している現在、不安を感じない人はいないでしょう。戦争も、知らず知らずのうちに忍び込み、取り返しのつかない時代になったのだと思います。

2020年8月6日の長崎平和祈念式典での、

田上富久市長の平和宣言は、下記のように始まりました。
 『私たちのまちに原子爆弾が襲いかかったあの日から、ちょうど75年。4分の3世紀がたった今も、私たちは「核兵器のある世界」に暮らしています。
どうして私たち人間は、核兵器をいまだになくすことができないでいるのでしょうか。人の命を無残に奪い、人間らしく死ぬことも許さず、放射能による苦しみを一生涯背負わせ続ける、このむごい兵器を捨て去ることができないのでしょうか。・・・』

平和祈念像
黙とうの時にならされる長崎の鐘

原爆投下を直接伝えられる人が少なくなっている今日、原爆を体験した方が、
「核なき世界を実現できなかったのを申し訳なく思い、謝り、その思いを若い世代に託したい、お願いしたい」と言われていました。

KUBOさんも、無力ですが、年に一度ですが、ブログに、
『戦争・原発についてなど』の記事をアップしています。
それは、75年前の長崎で、2.3㎞のところで原爆を体験した、久保さんの母の体験を読んでいただきたいからです。
2009年から毎年アップしていますが、一番読んでいただきたいのは、
1999年に、私(KUBOさん)の母が私の子どもたち(当時小学生)に

    「戦争の愚かさ 恐ろしさ平和の尊さ」  

 という文章を書いてくれた、

DSC_0606.JPG

下記で紹介させていただいている手記です。
★2010年8月:原爆記念日に

本アップの最後に全文(その後のそえてを含め)をおいて置きます。
何かしら感じてくださる方がいらっしゃればうれしいです。
他にも、以前の実験隊のブログの右の『戦争・原発についてなど:下記をクリック』にある項目で、2009年から毎年書いてきたアップを載せています。ご覧いただけたらうれしいです。
ちなみにですが、母は87歳の現在、元気にしております!
長いですが、母の手記はそのまま下記に置きます。

テレビの画面で八月六日広島、八月九日長崎の原爆記念の式典を見ながら、戦争・原爆の体験した人の平均年齢が六五歳くらい(一九九九年現在)になっていることを知り、その時のことを証言できる年齢も私たちが最後なのかもしれないと思いました。 戦争によって自分の意志でなく戦場に狩り出された人達・空襲により命を落とした人達・日本の植民地支配によってたくさんの悲しい思いをした中国・朝鮮の人達のことは、貴方達が中学生高校生になる頃は日本人の心の中から消し去られ、戦争を美化され、遠い遠い過去のこととして忘れられることが、一番恐ろしいことだと思いました。それならばたとへ百万分の1しか表せないとしても、書き残すべきことだと思い、筆を執ることにしました。 私は、昭和八年(一九三三年)四月生まれで一九九九年の今日六六歳になります。 日本がアメリカ・イギリスを相手に戦争を始めたのは、昭和一六年(一九四一年)十二月八日。小学校に入学してから卒業するまでの六年間は、全部戦争一色でした。世の中が何となく怪しい方向に進んでおり、天皇は神様、軍人それも自分から好んで軍人になった人達(職業軍人)は偉い人という感じは、まだ六才の私にも理解できるような雰囲気でした。 私は美しい山々に囲まれた長崎市で十歳年上の兄と、五歳年上の姉の三人兄妹の一番下に生まれ、諏訪神社が子供の頃の遊び場でした。勝山小学校という歴史の古い長崎で一番大きな小学校に入学しました。入学と同時に学校の名前も国民学校と変わりました。それでもまだ一・二年生の頃までは、赤い花柄のワンピース・赤いランドセル・ゴムの匂いのクンクンする新しい運動靴を履いて学校に行っていました。1年1組、受持は袴をはいた優しい先生でした。三年生頃になると世の中は軍事色一色になり、街にはサーベルを腰に付けた軍人さんが歩き、戦争に一寸でも反対の意見・態度でも示そうものならすぐに警察に連れていかれるという状態に変わっていきました。 学校では来る日も来る日も運動場で分列行進の練習です。竹槍で敵を突くという、今で思えば実に馬鹿馬鹿しい事ですが、家に帰ると水を入れたバケツリレーで爆弾を消す練習です。今の貴方達にすれば馬鹿げた事だと思うでしょうが、戦争中は本当にそれで必ず日本は勝つと思い、又そのように勝っているという発表ばかりがラジオ・新聞から流れました。その頃はもう赤いワンピースなどは勿論、すべての食料・衣類は切符が配られて、店には品物はほとんどありませんでした。 学校に行くときは母親の着物をほどいて、モンペ(パンツの足首を絞ったもの)をはいて、胸には住所・氏名・血液型を書いた大きな名札をつけて、頭には防空頭巾を被って通学していました。名札はいつどこで空襲にあって死んでも身元がわかるようにです。英語は勿論駄目、全ての楽しい事・おしゃれする事は全部駄目でした。鉄・金・銀は全て国に差し出しました。「ほしがりません勝つまでは」・「天皇陛下のためならなんで命が惜しかろう」そんな歌ばかり習っていました。四・五年生になる頃は食料品も街の市場や店から無くなり、田舎まで着物をもって芋やカボチャなどと交換して貰うのです。お金があっても何も買えないから物々交換です。サツマ芋の中に米がくっついているような主食、たまに真っ白の米のご飯と思って飛びつくと、それはジャガ芋だったりして、大人達はジャガ芋を米粒ぐらいに切って炊いて、せめて子供の目に白米と思わせたのでしょう。ダッシ大豆(大豆の皮を押しつぶしたもの)のご飯、とにかく口に入るものは何でも食べましたが、海草ダンゴ(海辺に打上げられた藻)だけはどうしても食べる事ができませんでした。芋・カボチャはなによりの上等な主食です。おかずなんて全然ありません。芋のツル・のびるなどとても大切なおかずです。 お弁当は箱の中にカンパンを入れて、量が少ないのでカランカランと音がするのです。それに湯を入れて、勿論茶の葉などありません。三倍くらいにふやかして食べていました。それでも田舎の子供は白米のお弁当など持ってくるのです。うらやましいと言うより、憎たらしく感じたものです。 昭和二十年頃になると、だんだん空襲が激しくなり、夜床に就くのも着のみ着のままです。敵の飛行機から明かりが見えると云うので電球に黒い布をかけて、本当に耐え難きを耐えるという生活で、B二九がゴウゴウと唸るように長崎の空を埋め尽くす日が多くなってきました。戦争が終わってからも長い間飛行機の音が怖くて、身がすくみました。 五十年過ぎた今日でもまだ八月九日の長崎に原子爆弾が投下された時の事は、鮮明に頭の中に焼き付いています。小学校六年生でした。十一時頃、空襲警報が解除され、そろそろお昼にしようと思っていると、遠くから爆音が聞こえてきました。敵か味方か見てくると庭に出たとたんでした。目の前にピンク・黄色・青の大きな火柱が落ちてきました。一瞬にして家の中はめちゃくちゃになりました。玄関の戸は六畳を突き抜けて外に飛び出し、ガラスというガラスは全部割れて、三階建ての我が家は傾きました。電気時計がぶらんと下がっていました。とにかく何がなんだか、どうして百メーターぐらい離れた横穴の防空壕までがれきとガラスの中を素足で走れたのかもわかりませんでした。父と姉は九電で被爆。兄は戦争にとられていました。私と母は中心地から二,三キロの自宅だったので直接死んだ人は近所でもいませんでした。しかし下痢と発熱で、毒を出すためにと柿の葉を煎じて飲みました。砂糖などあるはずもなく、その苦さはとにかく大変なものでした。 新型爆弾が落ちたということばかりで何もわからず、昨日とは全然違った街の姿でした。中心地では一瞬にして何万人もの人が白骨となり、一キロくらいまでの人は黒いスミと化していました。ヤケドの人達は、苦しみもがきながら水を求めてさまよい死んで行ったのです。街の中は荷馬車に火傷の薬を真っ白になった人が折り重なるようにつまれてどこに行くのか、何台も何台も運ばれていくのです。あの人達もいずれは死んでいかれたことでしょう。 我が家でも父の遠縁の叔母さんが、やっと探して中心地近くから逃げてこられました。もちろん家は全滅ですが生きていてよかったよかったと、大切にとってあった白米(これは兄が戦争から生きて還ってきたときに食べさせるために大切に大切にとってあったものです)でお握りを作り、食べてもらいました。とってもおいしそうに食べられました。みなお腹は空いていても叔母さんに食べさせるのがもったいないなど思わなかったのですね。外出中で難をのがれた叔父さんが連れに来られ田舎に行かれましたが、しばらくして体中の穴という穴から血を吐いて、なくなられました。叔母さんは外見は何ともなかったのですが。 又、知り合いの叔父さんが中心地近くの自宅に帰ってみたら、お腹に子供がいる奥さんと二人の子供が生焼けだったとかで、自分で何時間もかけて焼いて鉄兜(ヘルメット)の中に骨を入れてつれて来られました。叔父さんの涙が今でも忘れられません。 八月十五日、ラジオで天皇の話があると言うことで、近所の人達とピィピィ鳴るラジオの前に正座をして聞きました。よくわからないまま、とにかく日本は戦争に負けたことだけは理解できました。十二才、小学校六年の私は今日から安心して床につける・爆弾の恐ろしさからも解放されると言うことで、とにかくうれしくてうれしくてたまりませんでした。学校が始まると毎日、「神風が吹く」・「天皇は神様」・「鬼畜米英」など書いた国語・歴史・社会等の本は、ほとんど黒くなるようにスミで消すのです。言論の自由など一つもない、言わば洗脳された状態にそれまではおかれていたのです。それが八月十五日から、人間はみな平等・人間天皇・民主警察となるのです。 私たちは終戦日の後すぐに、アメリカの兵隊が来て男子は殺され女子は奴隷にされるということで、とにかく中心地を通って長与と言うところに行きました。中心地は全部焼け野が原、まるで地獄のような姿でした。生焼けの牛や馬がごろごろしていました。シャレコウベもゴロゴロとして、ちょうど食卓を囲むようにここは何人家族だとわかるような状態でした。その何とも言えない匂いは忘れられません。長崎医大は中心地からどれくらい離れているのでしょう。たぶん一キロとは離れていなかったでしょう。階段教室の中で座ったままスミのような状態で人間の形のままでした。勿論、長崎全体がざわざわとしている中、いたるところの小中学校で死んだ人を焼く匂いが立ち込めて、それが何日も何日も続きました。何年もの間魚やスルメの焼く匂いがどうしてもかげませんでした。相変わらず戦争は終わっても、住む家・食料品・衣料品は不足していました。でも生きているだけで有難いことです。 爆弾で死んでいった人達・自分の意志でなく、戦場にかりだされた人達・若くして片道だけの燃料で敵の船に突っ込んでいった特攻の人達、その人達のおかげで今日の平和があるのです。日本国民の意思でなくとも、日本のために初めた戦争です。しかし、そのために多くの中国・朝鮮・南洋の人達を苦しめたのも事実です。やはり、忘れることはできません。人は、のどもと過ぎればあつさ忘れると申します。貴方達が大きくなって、完全に心の中から戦争の二文字が消えた時、また戦争を美化してしまうかもしれません。次の時代の人達に、多くの善良な国民の犠牲の上にこの平和があることを伝えていかなければなりません。 私の十才年上の兄もシベリアに抑留され、やせ衰えて本当に惨めな姿でかえってきました。それから何十年もして兄が大病をしたとき、うわ言で出る言葉は戦争のことでした。それだけ心の中に消し去れない傷として残っていたのでしょう。どのような理由があろうとも、戦争は二度と繰り返してはいけません。 貴方達の英知で、平和がいつまでも続くように努力してください。そして友達に語り継いでください。 人間には上も下もありません。人間みな平等だと思います。 一番大切なのは人間の生命です。そして平和ではないでしょうか。体験したことの万分の一しか書けませんでしたが、とにかく戦争の愚かさ・恐ろしさ・平和の尊さをわかって貰えればと思います。一九九九年(平成十一年)原爆記念日そえて に続く~~そえて  戦争のことについては、孫たちに残す意味で書きつづってきました。 私自身の身体の事を書きたいと思います。 よく鼻血が出て、貧血がありましたが、昭和五十四年頃から、だんだん調子が悪くなりました。声ががらがらした声になり、のどから鳩尾(みぞおち)にかけて焼火箸でつきさされるような痛みが毎日毎日続きました。 耳鼻科・内科といろいろ通院しましたが、何ともないか自律神経でしょうと言われたり  よく何とかしてくださいと先生に言ったものでした。 主人の転勤で長崎から福岡にきてからも体調は変わりなく、それどころか夕食を食べながら、気分が悪くなり、横になりながらそのまま死ぬのではと思うこともありました。その時のかかりつけの先生が最後に甲状腺の検査をしてみようかといわれ血液を専門病院に出して下さり、福岡の大きい病院で検査した時には だいぶ悪くなっていました。「甲状腺機能低下症」ということで それがわかったのが昭和五十七年でした。 それから、薬りをのみつづけています。突き刺さるような痛みはだんだんとやわらぎましたがあれから三十年近く 色々の薬はかかせません。人の中に入るとき、いつも安定剤はかかせません。それがないと 心ここに非ずというような気持になります。 二カ月に一度の検査と色々の薬りはやめることが出来ません。 原爆のあつまり、地区の被爆者のつどいにも出席したことがありません。何故なら集まりの中にいくと気分が悪くなるからです。 でも孫たちの為 未来の子供達に何かをのこさねばという事は人いちばい想っています。 世界のどの国でも、戦争がなくなりますようにと祈ります。二〇一五年(平成二十七年) 八月

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